2018年04月29日

母の思い出(5)【「アプレゲール」戦後世代になっちゃった、戦前生まれ:その2】

少し母を思い出しています。
こんにちは
えどけいしょん小僧です。
今回は【アプレゲール】から母の戦後を見ていこうと思います。
アプレゲールについては、Wikiを参照すると
【(太平洋戦争)戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり既存の道徳観を欠いた無軌道な若者による犯罪が頻発し、彼らが起こした犯罪は「アプレゲール犯罪」と呼ばれた。また徒党を組んで愚連隊を作り、治安を悪化させた。このような暗黒面も含めて、「アプレ」と呼ばれるようになった。】
とあり「時代の破壊者」としての称号だったのですね。
そりゃあ、従前の価値観には従わなくなりますね。
多感な時期に、世の中全体から裏切られた世代ですから。
この世代が起こす凄惨な事件が沢山あったようです。
その他にも、後の「太陽族」のはしりです。カミナリ族初代(生みの親)の世代でもあります。

母を振り返ってみると・・・
 「みんなと一緒」で満足するな。一番危険な状態だよ。
 出てくる情報には必ず裏の面がある。恣意的な意図や偽りなんか当たり前。
 権威を「見抜く力」をつけなさい。
なんてよく言っていたなぁ。
世代傾向として、自分しか信じられなかった、親さえも信じられなかった世代だったんだなぁ。
つくづく思いますし、本当に逞しい世代だと思います。

しかし、純粋な戦後派ではないんです。
国民学校2年生までは経験しているので、戦前教育の基礎は叩き込まれています。
そこが、この世代が「団塊の世代」とは一線を画す違いなんだと思います。
また、究極のいざ!となると子供なんか「ノー眼チュー」となる、大人の冷たさも知ってます。
しっかりしてるし、依頼心は全く無いし、群れるの嫌いだし(笑)
モノの無い時代を多感な時期で経験しているの強味か、東日本大震災の時、東京の店中からモノが一切無くなっても
「グラマンが飛んで来て機銃掃射するわけじゃないから。火だけ気を付ければ平気」
と、まったく慌てませんでした。
地震や自然災害そのものが怖かった様です。
空襲を受けても全面消えて無くなる事はなく、必ず焼け残る区画があったそうです。
東京でいうと、月島など一角全て残ったそうです。
震災、特に津波には「根こそぎ」だったので、それは驚いていました。
「ありゃあ、助かる方が奇跡だよ」と。

また「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が流行ったとき(たけし初期のギャグ、ご存知ですか?!)
「団塊のギャグだなぁ、これは怖い世の中になるなぁ。」
としみじみ言っていました。

はてさて、如何でしょうか。
つらつら書いているだけなので、お恥ずかしい限りであります・・・。
今回は、ここで筆止め。母の思い出は、まだまだ続きます。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

えどけいしょん小僧でした。

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posted by えどけいしょん小僧 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 想い出

2018年01月19日

母の思い出 (3) 【 昭和12年気質 】

前回の引続き・・・・
ちょいとあいちゃいましたが。

 元気な頃の母は、病気知らずの医者嫌い。昭和12年気質か全く人の言う事を聞かず、権威が大嫌いな 「 天上天下唯我独尊 」タイプの母でした。

 私は、製薬メーカーに転職してそれなりに疾病や治療について勉強していましたので、多少なりとは母の状態がわかりました。また、実家(現在は創業した一般社団法人の本社)のある練馬区も、駆け出しMR時代の担当先だったものですから、仲良しで素晴らしい腕を持つ先生方も沢山いらっしゃいます。だから、ついつい

「 それだったら、あの先生のところで大腸内視鏡を見てもらった方がいいよ。 」

とか、

「 通院するならば紹介するよ! 」

とか、仲が悪いなりにいろいろと忠告したりしていたのです。
 しかし、それがいけなかったのかなぁ ( 苦笑 )

「 うるさい。医者なら自分で決めていくから。 」

 で、行った先が神経内科!!
 そりゃあないでしょう!? 
 母は 「 切れ痔 」 の診断結果に満足してましたが。嗚呼・・・・・

 なんだかんだ病気治療の事も含め、私も江戸っ子の末裔、様々な些細な事まで気になっちゃう性質なもんですから、ついうっかり余計な事まで言ってしまって、しょっちゅう電話越しで大喧嘩でした。

 しかしそれは、母の生きた時代が作り出した 「 性格 」 のかもしれません。
 
 それまで純粋に信じてきた 「 神国日本 」 が負けるはずもない、鬼畜米英で徹底的に教育されてきたのが、敗戦という日本が始まって以来の 『 パラダイムシフト 』 
 一夜にして、学校の先生たちが

「 今までは軍部の指導で間違いだった。アメリカ万歳、民主主義万歳、今までの教育余くたばれ! 」

 教科書に墨塗り指示を出したのです。
 母曰く、夏休みに入るその日まで事あるごとに

「 そんな姿勢では非国民だっ! 」

「 恐れ多くも ( 全員起立・直立不動・最敬礼 ) 天皇陛下にあられましては・・・ 」

 その掛け声の際につい 「 へま 」 こいて、びびビビビッ ( 母の原文ママ ) と女の子でもビンタを食らっていたそうです。そのおんなじ教師が、180度の大転換!!
 いきなり 『 先生 』 がみんな揃って民主主義教師になっていったのです。
 
 そりゃあ、権威なんて全く信じられなくなります。ましてやその後の二十代前半まで、戦後の苦しい時代が続いたです。自分だけが頼りになっていくのも、今ならよく判ります。

 そんな昭和12年気質、うちの父も ( 苦笑 )

未了
当時を思い出しながら、こんな感じでした・・・と、大いに反省ですね。
この項続きます
  えどけいしょん小僧

posted by えどけいしょん小僧 at 09:43| Comment(0) | 想い出

2018年01月15日

母の思い出【 名古屋の夜 】

 右肩上がりの「仕組み」から
 江戸時代のはんなり豊かな「雰囲気」に
 誤解だらけ、イデオロギーまみれの解釈から解放を
 地域のみんな、全国の仲間、大きな課題
 死を以って教えてくれた母に

【 名古屋の夜 】
 「たかゆき、いま母さんが亡くなったよ、死んだんだよ。」
 平成二十六年(二〇一四年)十二月の真夜中、ビジネスホテルのデスクで受けた携帯電話。最初は何を言っているのか、さっぱりわからなかった父の電話でした。長い二分間の沈黙。
「死様は?」
 涙よりも先に出た言葉。この一言でした。
 それは、父の腕に居抱かれて思い出話をしながら笑って静かに。
 それまで沢山いろんな事がありましたが、全てを打ち消して周りを幸せにする、理想の在宅死を迎えさせて頂いたのです。

 思えば長い在宅療養生活でした。しかしそのスタートを、残念ながら私は知りません。
 
 勤めていた鉄鋼メーカーの転勤で平成8年(1996年)4月大阪に転居、11月に結婚し、平成11年(1999年)末転職を以って東京に戻るまでは、距離と時間の関係で適度だった「嫁・姑関係」が、その後少しずつ微妙に・・・・・。
 ありがちな事なのですが、挟まれるこちらとしてはたまったものではありません。とうとう、ようやく授かった第一子、長女の誕生から私も正式に巻き込まれて正面対決になってしまいました。
 ありがちな事が更にありがちに進んで、平成13年(2001年)から東日本大震災の平成23年(2011年)まで10年間余り、盆暮れ正月全て含め一切の交流無しに。今思えば 「 親不孝ここに極まれり 」でした。
あの時は深く考えなかったこの10年間の結果が、父や母が元気な時には思いもよらない後の「在宅療養生活」と、「老々介護による終末」でした。
 そして私の人生をサラリーマン生活どっぷりから「えどけいしょんトレードマーク(TM)活動」に向けての大きな転換を決定付けたのです。この仕事を始めようと思ったきっかけが、この母の在宅死でした。

 平成22年に大腸がんの手術はしますが、当時流行っていた某大学病院 K 医師による 『 抗がん剤治療は絶対するな! 』 なんていうトンデモ本のおかげで 「ケモ (化学療法)」 を拒み、たくらみ通りまんまと病院を追い出され、大好きな家で父と二人の在宅療養となりました。
 しかし当然、がんは全身に転移。
 一番拒絶していた 『 人工肛門(オストメイト) 』となったのです。

未了
この項続きます。
  えどけいしょん小僧

 


posted by えどけいしょん小僧 at 15:44| Comment(0) | 想い出