2018年01月15日

母の思い出【 名古屋の夜 】

 右肩上がりの「仕組み」から
 江戸時代のはんなり豊かな「雰囲気」に
 誤解だらけ、イデオロギーまみれの解釈から解放を
 地域のみんな、全国の仲間、大きな課題
 死を以って教えてくれた母に

【 名古屋の夜 】
 「たかゆき、いま母さんが亡くなったよ、死んだんだよ。」
 平成二十六年(二〇一四年)十二月の真夜中、ビジネスホテルのデスクで受けた携帯電話。最初は何を言っているのか、さっぱりわからなかった父の電話でした。長い二分間の沈黙。
「死様は?」
 涙よりも先に出た言葉。この一言でした。
 それは、父の腕に居抱かれて思い出話をしながら笑って静かに。
 それまで沢山いろんな事がありましたが、全てを打ち消して周りを幸せにする、理想の在宅死を迎えさせて頂いたのです。

 思えば長い在宅療養生活でした。しかしそのスタートを、残念ながら私は知りません。
 
 勤めていた鉄鋼メーカーの転勤で平成8年(1996年)4月大阪に転居、11月に結婚し、平成11年(1999年)末転職を以って東京に戻るまでは、距離と時間の関係で適度だった「嫁・姑関係」が、その後少しずつ微妙に・・・・・。
 ありがちな事なのですが、挟まれるこちらとしてはたまったものではありません。とうとう、ようやく授かった第一子、長女の誕生から私も正式に巻き込まれて正面対決になってしまいました。
 ありがちな事が更にありがちに進んで、平成13年(2001年)から東日本大震災の平成23年(2011年)まで10年間余り、盆暮れ正月全て含め一切の交流無しに。今思えば 「 親不孝ここに極まれり 」でした。
あの時は深く考えなかったこの10年間の結果が、父や母が元気な時には思いもよらない後の「在宅療養生活」と、「老々介護による終末」でした。
 そして私の人生をサラリーマン生活どっぷりから「えどけいしょんトレードマーク(TM)活動」に向けての大きな転換を決定付けたのです。この仕事を始めようと思ったきっかけが、この母の在宅死でした。

 平成22年に大腸がんの手術はしますが、当時流行っていた某大学病院 K 医師による 『 抗がん剤治療は絶対するな! 』 なんていうトンデモ本のおかげで 「ケモ (化学療法)」 を拒み、たくらみ通りまんまと病院を追い出され、大好きな家で父と二人の在宅療養となりました。
 しかし当然、がんは全身に転移。
 一番拒絶していた 『 人工肛門(オストメイト) 』となったのです。

未了
この項続きます。
  えどけいしょん小僧

 


posted by えどけいしょん小僧 at 15:44| Comment(0) | 想い出
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