前回の引続き・・・・
ちょいとあいちゃいましたが。
元気な頃の母は、病気知らずの医者嫌い。昭和12年気質か全く人の言う事を聞かず、権威が大嫌いな 「 天上天下唯我独尊 」タイプの母でした。
私は、製薬メーカーに転職してそれなりに疾病や治療について勉強していましたので、多少なりとは母の状態がわかりました。また、実家(現在は創業した一般社団法人の本社)のある練馬区も、駆け出しMR時代の担当先だったものですから、仲良しで素晴らしい腕を持つ先生方も沢山いらっしゃいます。だから、ついつい
「 それだったら、あの先生のところで大腸内視鏡を見てもらった方がいいよ。 」
とか、
「 通院するならば紹介するよ! 」
とか、仲が悪いなりにいろいろと忠告したりしていたのです。
しかし、それがいけなかったのかなぁ ( 苦笑 )
「 うるさい。医者なら自分で決めていくから。 」
で、行った先が神経内科!!
そりゃあないでしょう!?
母は 「 切れ痔 」 の診断結果に満足してましたが。嗚呼・・・・・
なんだかんだ病気治療の事も含め、私も江戸っ子の末裔、様々な些細な事まで気になっちゃう性質なもんですから、ついうっかり余計な事まで言ってしまって、しょっちゅう電話越しで大喧嘩でした。
しかしそれは、母の生きた時代が作り出した 「 性格 」 のかもしれません。
それまで純粋に信じてきた 「 神国日本 」 が負けるはずもない、鬼畜米英で徹底的に教育されてきたのが、敗戦という日本が始まって以来の 『 パラダイムシフト 』
一夜にして、学校の先生たちが
「 今までは軍部の指導で間違いだった。アメリカ万歳、民主主義万歳、今までの教育余くたばれ! 」
教科書に墨塗り指示を出したのです。
母曰く、夏休みに入るその日まで事あるごとに
「 そんな姿勢では非国民だっ! 」
「 恐れ多くも ( 全員起立・直立不動・最敬礼 ) 天皇陛下にあられましては・・・ 」
その掛け声の際につい 「 へま 」 こいて、びびビビビッ ( 母の原文ママ ) と女の子でもビンタを食らっていたそうです。そのおんなじ教師が、180度の大転換!!
いきなり 『 先生 』 がみんな揃って民主主義教師になっていったのです。
そりゃあ、権威なんて全く信じられなくなります。ましてやその後の二十代前半まで、戦後の苦しい時代が続いたです。自分だけが頼りになっていくのも、今ならよく判ります。
そんな昭和12年気質、うちの父も ( 苦笑 )
未了
当時を思い出しながら、こんな感じでした・・・と、大いに反省ですね。
この項続きます
えどけいしょん小僧
2018年01月19日
母の思い出 (3) 【 昭和12年気質 】
posted by えどけいしょん小僧 at 09:43| Comment(0)
| 想い出
2018年01月15日
母の思い出【 名古屋の夜 】
右肩上がりの「仕組み」から
江戸時代のはんなり豊かな「雰囲気」に
誤解だらけ、イデオロギーまみれの解釈から解放を
地域のみんな、全国の仲間、大きな課題
死を以って教えてくれた母に
【 名古屋の夜 】
「たかゆき、いま母さんが亡くなったよ、死んだんだよ。」
平成二十六年(二〇一四年)十二月の真夜中、ビジネスホテルのデスクで受けた携帯電話。最初は何を言っているのか、さっぱりわからなかった父の電話でした。長い二分間の沈黙。
「死様は?」
涙よりも先に出た言葉。この一言でした。
それは、父の腕に居抱かれて思い出話をしながら笑って静かに。
それまで沢山いろんな事がありましたが、全てを打ち消して周りを幸せにする、理想の在宅死を迎えさせて頂いたのです。
思えば長い在宅療養生活でした。しかしそのスタートを、残念ながら私は知りません。
勤めていた鉄鋼メーカーの転勤で平成8年(1996年)4月大阪に転居、11月に結婚し、平成11年(1999年)末転職を以って東京に戻るまでは、距離と時間の関係で適度だった「嫁・姑関係」が、その後少しずつ微妙に・・・・・。
ありがちな事なのですが、挟まれるこちらとしてはたまったものではありません。とうとう、ようやく授かった第一子、長女の誕生から私も正式に巻き込まれて正面対決になってしまいました。
ありがちな事が更にありがちに進んで、平成13年(2001年)から東日本大震災の平成23年(2011年)まで10年間余り、盆暮れ正月全て含め一切の交流無しに。今思えば 「 親不孝ここに極まれり 」でした。
あの時は深く考えなかったこの10年間の結果が、父や母が元気な時には思いもよらない後の「在宅療養生活」と、「老々介護による終末」でした。
そして私の人生をサラリーマン生活どっぷりから「えどけいしょん
活動」に向けての大きな転換を決定付けたのです。この仕事を始めようと思ったきっかけが、この母の在宅死でした。
平成22年に大腸がんの手術はしますが、当時流行っていた某大学病院 K 医師による 『 抗がん剤治療は絶対するな! 』 なんていうトンデモ本のおかげで 「ケモ (化学療法)」 を拒み、たくらみ通りまんまと病院を追い出され、大好きな家で父と二人の在宅療養となりました。
しかし当然、がんは全身に転移。
一番拒絶していた 『 人工肛門(オストメイト) 』となったのです。
未了
この項続きます。
えどけいしょん小僧
江戸時代のはんなり豊かな「雰囲気」に
誤解だらけ、イデオロギーまみれの解釈から解放を
地域のみんな、全国の仲間、大きな課題
死を以って教えてくれた母に
【 名古屋の夜 】
「たかゆき、いま母さんが亡くなったよ、死んだんだよ。」
平成二十六年(二〇一四年)十二月の真夜中、ビジネスホテルのデスクで受けた携帯電話。最初は何を言っているのか、さっぱりわからなかった父の電話でした。長い二分間の沈黙。
「死様は?」
涙よりも先に出た言葉。この一言でした。
それは、父の腕に居抱かれて思い出話をしながら笑って静かに。
それまで沢山いろんな事がありましたが、全てを打ち消して周りを幸せにする、理想の在宅死を迎えさせて頂いたのです。
思えば長い在宅療養生活でした。しかしそのスタートを、残念ながら私は知りません。
勤めていた鉄鋼メーカーの転勤で平成8年(1996年)4月大阪に転居、11月に結婚し、平成11年(1999年)末転職を以って東京に戻るまでは、距離と時間の関係で適度だった「嫁・姑関係」が、その後少しずつ微妙に・・・・・。
ありがちな事なのですが、挟まれるこちらとしてはたまったものではありません。とうとう、ようやく授かった第一子、長女の誕生から私も正式に巻き込まれて正面対決になってしまいました。
ありがちな事が更にありがちに進んで、平成13年(2001年)から東日本大震災の平成23年(2011年)まで10年間余り、盆暮れ正月全て含め一切の交流無しに。今思えば 「 親不孝ここに極まれり 」でした。
あの時は深く考えなかったこの10年間の結果が、父や母が元気な時には思いもよらない後の「在宅療養生活」と、「老々介護による終末」でした。
そして私の人生をサラリーマン生活どっぷりから「えどけいしょん

平成22年に大腸がんの手術はしますが、当時流行っていた某大学病院 K 医師による 『 抗がん剤治療は絶対するな! 』 なんていうトンデモ本のおかげで 「ケモ (化学療法)」 を拒み、たくらみ通りまんまと病院を追い出され、大好きな家で父と二人の在宅療養となりました。
しかし当然、がんは全身に転移。
一番拒絶していた 『 人工肛門(オストメイト) 』となったのです。
未了
この項続きます。
えどけいしょん小僧
posted by えどけいしょん小僧 at 15:44| Comment(0)
| 想い出
2018年01月14日
江戸時代は21世紀にも受け継がれています(3)
今日は熱海の朝です。
素晴らしい夜明けの空。輝くばかりの朝となっています。気温は珍しくマイナス1℃です。
さて、引き続きですが
西欧型は 『上から目線 (階級的)』
江戸日本型は 「同列同士の助け合い (社会的)」
な中小企業/ベンチャー起業の支援について、これは 【思想】 であって結構全般的に言えるのでは?!
これが根っこにあるから、いろんな馴染まない部分があるんじゃないでしょうか。
信用金庫/信用組合は、「頼母子講」「無尽」からのスタートなので、組合員としての相互扶助が基本。
誰かが身分的・経済的に上位者で 『ほどこす』 という感覚はありません。
「頼母子講」や「無尽」は、ほぼ形を変えずに未だ地方では運用されています。
事業者組合などで減容されてるパターンや、沖縄県特に宮古島などの島しょ部では、本州では廃れてしまいつつあるご近所同士での「頼母子講」が続いています。仕組み的には父などから聞く昔ながらのパターンと全く同じ、呼び名が変わっているだけです。私が知らないだけで、皆さんの地域でも運用されているかもしれませんね。
聞いてみると、毎月1万円位の出資で年利10%前後での運用のようです。
完全に相互の助け合いで、同列関係。女性の夜間外出が厳しい沖縄(琉球)の伝統でも 「頼母子講の寄り合いだけは、無条件でOK!」 で大手を振って外出できるとの事。あっ、これも今現在の話です(笑)
地位があるから、金を持ってるから、という『ノブレス・オブリージュ』で半分義務として『施しを与えていく』感覚は全くありません。みんなでの助け合いで乗り切ろうぜ!っていう感覚です。
この江戸期以来の日本の仕組みの動力源は「地域の信用」です。これがあるから、相互扶助となる人間関係が構築できる。相互扶助の人間関係があるから、地域として見捨てられる人たちが少ない、セフティーネットが形成される。また、人間関係が構築されればお金や物の動きが生まれ、地域振興策にもなる・・・。
現代日本にも、江戸時代から脈々と続く「助け合い」の精神は制度として残っているんですね。
江戸時代の長屋などをはじめとして、あらゆる所で見られた「人情社会」は、幕藩体制が生んだ制度の結果でもあります。
それが江戸時代での幕藩体制における 「自治体制」、小さな政府を目指すのならば、一つの究極の形ではないでしょうか。まあ、今から100%戻すなんて不可能だし、私は嫌だなぁ、と思う側面もあるし。なんてったって、民主主義・個人主義・自由主義の申し子だし(笑)
この根底の考え方が、西欧と日本の 「なんとなく感じが違うなぁ」 と感じちゃうところなんじゃないかと思います。
『北欧の社会福祉制度がよい』『欧米の進んだボランティア制度』
これらを積極的に採り入れながら、我々の十八番である 「消化吸収&ガラパゴス化」 の枠組みで、ある意味 「ゆる〜く」 やっていったらなんとなくうまくいくんじゃないかなぁ・・・。
なぁんて(笑)
今度は、お金以外でも見ていきましょうか!!(笑)
えどけいしょん小僧
素晴らしい夜明けの空。輝くばかりの朝となっています。気温は珍しくマイナス1℃です。
さて、引き続きですが
西欧型は 『上から目線 (階級的)』
江戸日本型は 「同列同士の助け合い (社会的)」
な中小企業/ベンチャー起業の支援について、これは 【思想】 であって結構全般的に言えるのでは?!
これが根っこにあるから、いろんな馴染まない部分があるんじゃないでしょうか。
信用金庫/信用組合は、「頼母子講」「無尽」からのスタートなので、組合員としての相互扶助が基本。
誰かが身分的・経済的に上位者で 『ほどこす』 という感覚はありません。
「頼母子講」や「無尽」は、ほぼ形を変えずに未だ地方では運用されています。
事業者組合などで減容されてるパターンや、沖縄県特に宮古島などの島しょ部では、本州では廃れてしまいつつあるご近所同士での「頼母子講」が続いています。仕組み的には父などから聞く昔ながらのパターンと全く同じ、呼び名が変わっているだけです。私が知らないだけで、皆さんの地域でも運用されているかもしれませんね。
聞いてみると、毎月1万円位の出資で年利10%前後での運用のようです。
完全に相互の助け合いで、同列関係。女性の夜間外出が厳しい沖縄(琉球)の伝統でも 「頼母子講の寄り合いだけは、無条件でOK!」 で大手を振って外出できるとの事。あっ、これも今現在の話です(笑)
地位があるから、金を持ってるから、という『ノブレス・オブリージュ』で半分義務として『施しを与えていく』感覚は全くありません。みんなでの助け合いで乗り切ろうぜ!っていう感覚です。
この江戸期以来の日本の仕組みの動力源は「地域の信用」です。これがあるから、相互扶助となる人間関係が構築できる。相互扶助の人間関係があるから、地域として見捨てられる人たちが少ない、セフティーネットが形成される。また、人間関係が構築されればお金や物の動きが生まれ、地域振興策にもなる・・・。
現代日本にも、江戸時代から脈々と続く「助け合い」の精神は制度として残っているんですね。
江戸時代の長屋などをはじめとして、あらゆる所で見られた「人情社会」は、幕藩体制が生んだ制度の結果でもあります。
それが江戸時代での幕藩体制における 「自治体制」、小さな政府を目指すのならば、一つの究極の形ではないでしょうか。まあ、今から100%戻すなんて不可能だし、私は嫌だなぁ、と思う側面もあるし。なんてったって、民主主義・個人主義・自由主義の申し子だし(笑)
この根底の考え方が、西欧と日本の 「なんとなく感じが違うなぁ」 と感じちゃうところなんじゃないかと思います。
『北欧の社会福祉制度がよい』『欧米の進んだボランティア制度』
これらを積極的に採り入れながら、我々の十八番である 「消化吸収&ガラパゴス化」 の枠組みで、ある意味 「ゆる〜く」 やっていったらなんとなくうまくいくんじゃないかなぁ・・・。
なぁんて(笑)
今度は、お金以外でも見ていきましょうか!!(笑)
えどけいしょん小僧
posted by えどけいしょん小僧 at 10:02| Comment(0)
| 江戸時代の仕組み